朝ドラ『らんまん』の舞台裏――モデルとなった牧野富太郎がロシアへ行こうとした理由
NHKの連続テレビ小説『らんまん』は、高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリーです。主人公・槙野万太郎(神木隆之介)は、植物に魅せられて、明治時代の日本で奮闘する若者です。しかし、彼は植物学の権威・田邊教授(松重豊)と対立し、東京帝国大学の植物学教室から出入り禁止にされてしまいます。このエピソードは、実際に牧野富太郎が経験した出来事に基づいています。
牧野富太郎は、明治22年(1889年)に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業し、同大学の助手となりました。彼は矢田部良吉教授(田邊教授のモデル)の下で研究を続けましたが、矢田部教授とは性格や考え方が合わず、しばしば衝突しました。矢田部教授は、欧米の植物学界に追随する保守的な姿勢をとっていましたが、牧野富太郎は、日本独自の植物を発見し、世界に発信する革新的な志向を持っていました。
明治23年(1890年)、牧野富太郎は、日本初のカラー図鑑『日本植物志図篇』を刊行しました。この図鑑は、彼が自ら描いた精密な植物画と詳細な解説で構成されており、日本の植物学界に衝撃を与えました。しかし、この図鑑には矢田部教授の名前が載っていませんでした。これは、牧野富太郎が矢田部教授から何も教わっていないという意思表示だったのです。矢田部教授はこれを大きな侮辱と受け取り、牧野富太郎を植物学教室から追放しました。
牧野富太郎は失意の中で、ロシアへ渡ろうと考えました。彼はロシアの植物学者・マキシモヴィッチ博士(マキシム・マキシモビッチ)と文通しており、彼から高く評価されていました。マキシモヴィッチ博士は、日本や中国の植物に詳しく、多くの新種を発見しました。牧野富太郎は彼の研究の手助けをしようと、駿河台にあった日本正教会のニコライ堂にマキシモヴィッチへの仲介を頼みました。ニコライ堂の主教は快く引き受けて、マキシモヴィッチへ手紙を書きました。
しかし、牧野富太郎の夢は叶いませんでした。マキシモヴィッチ博士は、主教からの手紙が届いたときにはすでに病に倒れており、そのまま亡くなってしまいました。牧野富太郎は深い悲しみと絶望に陥りましたが、友人や同僚の励ましと支援によって、立ち直ることができました。彼は駒場の帝国大学農科大学の一隅に研究の場を得て、『日本植物志図篇』を再開しました。また、日本各地や台湾、朝鮮などに植物採集に赴き、多くの新種を発見しました。
牧野富太郎はその後も植物学界で活躍し、世界的な名声を得ました。彼は「日本植物学の父」と呼ばれるようになりましたが、彼自身は常に謙虚で探究心に満ちていました。彼は生涯に約4000種もの植物を記載し、そのうち約1500種が新種でした。彼は自ら描いた植物画も約2万点も残しました。彼は昭和7年(1932年)に亡くなりましたが、彼の業績は今もなお多くの人々に感動と教えを与えています。
朝ドラ『らんまん』では、牧野富太郎の人生をモデルとしながらも、オリジナルのストーリーが展開されています。ドラマではどのようにロシア行きのエピソードが描かれるのか、注目ですね。牧野富太郎の波乱万丈な人生と情熱的な姿勢から、私たちは何を学べるのでしょうか。ドラマを見ながら考えてみたいと思います。