「江川卓の超伝導ストレートに迫る!法政大学時代のバッテリー仲間が語る“怪物”の真実」
江川卓のナゾ…“普通ならありえない”ストレートを受けた名捕手「本当にホップしていた」怪物が顔色を変えた“岡田彰布と原辰徳”「伝説の対戦」(Number Web) - Yahoo!ニュース
こんにちは。今回は、高校野球の歴史に名を残す3人の“怪物”の一人、江川卓についてお話ししたいと思います。江川卓といえば、昭和時代に作新学院高校で甲子園を沸かせた後、法政大学で東京六大学リーグを席巻し、プロでは西武ライオンズで活躍した名投手です。彼はどんなボールを投げていたのでしょうか。その答えを知るために、私は彼の法政大学時代のバッテリー仲間であり、ロッテで名捕手として活躍した袴田英利さんにインタビューしました。袴田さんは、江川卓のストレートがどれほど凄まじかったかを語ってくれました。
袴田さんによると、江川卓のストレートは「理論上ありえない」と言われるほどホップしていたそうです。打者がベルト付近のボールだと思って振ると、浮き上がってくるというのですから驚きです。袴田さんは、「3年の時が一番速かったかな。回転数が多くて、160キロぐらい出ていたと思います」と振り返ります。袴田さんはロッテで村田兆治や伊良部秀輝などの剛速球を受けてきましたが、彼らとは球質が違ったと言います。「卓は打者の手元でパーンと伸びてくる。村田さんや伊良部も速くて重かったけど、ポーンと来るようなストレートでした。卓のような球質のピッチャーはいなかったですね」と述懐します。
江川卓は高校時代から“怪物”と呼ばれていました。公式戦でノーヒット・ノーラン12回、完全試合2回。甲子園では3年春に2試合完封、計4試合で60奪三振。夏の初戦は23三振 (延長15回)を奪ったこともあります。袴田さんは、「そのままプロに入っていたら、すごい成績を残したでしょうね。本人は高校の時が速かったと言ってました」と語ります。
しかし、江川卓はプロ入りを断り、早慶戦に憧れて慶応大学を受験しました。残念ながら不合格になりましたが、同じ東京六大学リーグに所属する法政大学に入学しました。そこで袴田さんと出会ったのです。「 (川崎市木月の)合宿所で初めて会った時、だいぶ体が大きかったんですよ。これで動けるのかなと思いました」と袴田さんは言います。受験勉強で5カ月以上も練習ができなかった江川卓は92キロまで増えていましたが、グラウンドに立つと怪物は健在でした。
袴田さんは、江川卓との初めてのキャッチボールの感想をこう語ります。「すごく重かったですね。手が痛くなりました。でも、それ以上に驚いたのは、彼のボールがまっすぐ飛んでこないことでした。左右にぶれたり、上下に動いたりしていました。それで、彼が投げるときに手首をひねっているのに気づきました。彼は自分でボールの回転をコントロールしていたんです。それはすごいことだと思いました」。
江川卓は法政大学で4年間、東京六大学リーグで圧倒的な成績を残しました。通算成績は41勝7敗、防御率0.88、奪三振率13.1。最優秀投手賞6回、最高殊勲選手賞4回、ベストナイン6回を獲得しました。袴田さんは、「卓は自分の力に自信があって、どんな打者にも挑戦していました。岡田彰布や原辰徳との対戦も伝説になっていますよね」と話します。岡田彰布は早稲田大学の強打者で、原辰徳は明治大学の4番打者でした。彼らと江川卓の対決は多くのファンを魅了しました。
袴田さんは、江川卓とバッテリーを組んだことについて、「本当に幸せだったと思います」と感謝の気持ちを述べます。「卓は僕に任せてくれていました。僕がサインを出すと、必ず投げてくれました。それで、僕も彼のボールを受けることに集中できました。彼は僕のことを信頼してくれていたんだと思います」と振り返ります。
江川卓は法政大学卒業後、西武ライオンズに入団しました。プロでも活躍しましたが、故障や不調に悩まされることもありました。袴田さんは、「卓はプロでは本当の力を発揮できなかったと思います」と言います。「法政大学時代の方が速かったし、球威もあったし、コントロールも良かったです。プロでは体重が増えたり減ったりして、バランスが崩れたんじゃないですかね」と推測します。
袴田さんは、「卓は今でも僕の親友です」と言います。「野球以外の話もよくしますよ。彼は野球に対する情熱がすごくて、今でも色々な意見を言ってきます。僕もそれに答えています。野球が好きなんですよね」と笑います。
江川卓は高校野球の歴史に名を残す3人の“怪物”の一人ですが、彼は法政大学時代にもその名声に恥じない活躍をしました。彼の超伝導ストレートに迫ることができた袴田英利さんの証言から、その真実が見えてきました。江川卓は今でも多くの野球ファンの心に残る投手です。